日本株月次レポート:2025年11月
人手不足なのになぜ実質賃金があがらないのか
2017年 「人手不足なのになぜ賃金があがらないのか」というタイトルの書籍(注1)が話題をあつめました。20人以上の経済学者、日銀、政府機関の研究者らの実証分析を一冊にまとめたものです。8年前の問題意識は、実質賃金ではなく、名目賃金にありました。
同書では、賃金が上がらない背景として次のような分析が紹介されています。⚪︎価格競争とコスト抑制の圧力が強かった、⚪︎業績回復は内部留保に優先され従業員への還元が後回しにされた、⚪︎賃金交渉力が弱い非正規社員が増加した、⚪︎年功序列など日本特有の雇用慣行、などがあげられ、賃金制度・企業行動・社会文化などの要因が絡み合って賃金が上がらない現象が生じているとの分析が中心でした。
物価が上昇している現在から振り返ると、当時はまだデフレだったからではないかとも考えられますが、同書のなかでは、デフレだから賃金があがらない、という言及はありません。編者は序章で、構造的要因(労働分配率が下がったから、労働生産性が低下したから)という言葉であいまいにせず、実態を明らかにしたかったと述べています。このことから、机上の分析でデフレが原因だと単純に結論づけるのを避けたものと理解します。
現在、名目賃金は急速に上昇しています。しかし同時に消費者物価も上昇しているため、賃金上昇率から物価上昇率を差し引いた実質賃金はマイナスという状態が続いています。特に食品価格の上昇率が高いため家計の物価上昇の負担感は重く、「インフレのデフレ効果」(物価上昇で必要な消費水準が低下してしまうこと。(注2))という現象も留意すべきと考えます。
当社が企業調査で経営陣と面談すると、競争は熾烈でも同業他社も値上げしているため調達コスト上昇を価格転嫁しやすくなった、内部留保は株主還元や投資、また賃上げにも振り向けている、など事業環境や経営判断の変化が感じられます。また、労働需給は女性や高齢者の労働参加率は上昇し、外国人労働者も多くみかけるようになりましたが、それでも人手不足の状況はかわらず(注3)、経営者の多くは賃金を上げないと優秀な人材を採用したり離職を防ぐことは難しいと認識しているようです。
人手不足なのになぜ実質賃金があがらないのか、というテーマの研究は経済学者の学術的分析を待ちたいと思います。当社のボトムアップの企業分析活動からは、経営者の考え方はインフレ対応型にシフトしつつありますが、物価上昇のスピードにおいつかず、実質賃金がマイナスの状態が続いていると解釈しています。もしこのタイムラグのみが要因(注4)であるとすれば、いずれは物価上昇が低下し、賃上げが継続することで、実質賃金がプラスに転換していくと考えられます。
高市早苗新総理は、コストプッシュ型からディマンドプル型のインフレへの転換との目標を掲げています。賃上げと需要の強い経済環境であれば「インフレのデフレ効果」は起こりにくいと考えます。そのためには政府の経済政策と同時に企業の考え方の変化も必要と感じます。
当社含め長期投資を行う機関投資家が行うエンゲージメント活動は、資本コストの認識とそれを上回る収益率の拡大のための施策を議論するものです。賃金を引き上げることは人件費(固定費)の上昇となりますが、それを人的投資ととらえ優秀な人材を確保し将来の業績成長につなげる経営戦略が機能することで、日本経済の課題のひとつである労働生産性が改善し、株式市場もさらに活性化していくと期待します。
注1)慶応大学出版会、玄田有史編、(2017)『人手不足なのになぜ賃金があがらないのか』 注2)日本経済新聞社、黒田晃生著、(1998)『金融政策の話』 注3)日銀短観(概要)ー2025年9月ー P6 雇用人員判断 https://www.boj.or.jp/statistics/tk/gaiyo/2021/tka2509.pdf 注4)<参考>講談社、渡辺努著、(2022)『物価とは何か』